今週のomi



2003
1028


先週、10キロ以上強制的に歩かされたら、結構体調がよく、なかなか快適だ。そこで土曜日に多摩川大橋を越えたところにある電器屋ワットマンまで往復歩いた。やはり10キロ以上にはなったと思う。なぜ金もないのに電器屋にいったかというと、広告でCDウオークマンが3000円になると載っていたからだ。話せば長くなるが、韓国ではCDDVD,VCDが安いということなのでぜひほしい。そして買ったCDをすぐに聞ければ、ちょっと快適じゃないってずっと思っていたのである。しかしなんといってもCDウオークマンは私にとって贅沢品だ。息子が旅行中MDを貸してくれるといったので、それを持っていこうかと、とりあえずは交渉成立してはいたのだが、あのちらしを見てこれだった買えると思い、バス代も節約してワットマンまでのりこんだのだ。しかしこのような業界にうとい者にとっては、なぜその機械が安いかを知ったのは売り場でだった。SONYなどの大手のメーカーにくらべると安いCDウオークマンは聴ける時間が極端に短いのだ。SONYの製品は充電で100時間以上聴けるのに、それはたった7時間しか再生できないのだ。やはり何かあるよね。しかしここまで歩いてきてっと思った瞬間、高くてもやっぱ買おうという思いが押し寄せてきた。そして一番新しいSONYCDウオークマンを買ってしまったのだ。これは本当に悪い性格なのだが、私は思い込んだらひとすじになってしまうところがある。しかしこれを持って韓国に行くぞと思うと、また心が倍になってはずむ。こんな贅沢をしてと後悔をはじめるのはたぶん来週あたりからでしょう。

 多摩川まで歩いた2日後、また叔母からの電話。野菜があるからとりにこない? 近くに越してきてくれて家庭菜園で作った野菜をもらいにいける。これって最高なはずなんですが、やはりそこには母が登場する。結局、また一緒に歩いて田園調布までいった。母はあと23回歩けば、道を覚えるそうだ。(ということはそれまで私はいつも一緒に行くのか)叔母の家は引っ越しの片付けもすっかりすんでおり、いらなくなったコート類をどっさり私の前にだし、持っていっていいわよっと言ってくれた。さすがに叔母のきていたもの(リッチないとこのものもあった)だけにいいものばかりだ。私は自分でそれらのものを買えないので、全部根こそぎ頂いてきた。母は私には何もないの?と勝手に洋服ダンスをあけはじめ(本当にすごい姉妹だ)叔母がまだ使っているソニアのジャケットを奪ってきた。ついでにこのスカーフもいいわっと言って、フランス製のスカーフまでうばった。なにかこんな生活を続けていいのかなあと恐ろしくなってしまう。帰りにボストンバッグ一杯になってしまった衣類を(韓国に行く時だってこんなに荷物はないだろう)肩から背負って行商人のようになった私を無視して、母はまた歩いて帰るわよっとさっさと歩きはじめた。なんでこんな荷物をしょって私は東京の街を歩かなければならないんだろうとつらかったが、やっぱさからえない。帰宅して衣類は放り投げ昼寝をしてしまった。

 昨日、水曜日は映画のレディースデイだ。めったに映画など見にいかない私であるが、行く時はこのレディースデイを使っている。SSUという韓国の映画は今週一杯ということだったので、川崎のチネチッタに見にいった。ユンソナちゃんも、とてもよかったと絶賛していた映画だ。上映時間は140分の回のみ。ということはやはり韓国映画の人気は今ひとつなのかもしれない。まあ空いている方がいいのだが。そして私は歩いて川崎に向った。まあ2時間あれば楽勝でしょうと歩きはじめたのだが、この日は異常に暑かった。途中でコートは脱がなければならないし、多摩川大橋のあたりで、なぜこんな思いまでして映画を見に行かなければならないのかと疑問さえ生じた。そして道に迷うことはなかったにもかかわらず、映画館に着いたのは上映の15分前だった。自由が丘、大井町はだいたい1時間で歩けるのだが、やはり川崎は遠いのだと映画を見る前に変な感動があった。カプチーノを持ち込み、チョコレートを手に席に座る。

映画は韓国の海軍の潜水特殊部隊の友情と恋愛を描いているのだが、なかなかよかった。隣に座ったおばさんは泣いていた。ちなみに私は映画で泣いたのは小さい時に見た「子鹿物語」だけだ。なんでこのおばさんが泣いていたかは少々わかるが、自分の涙は目の奥にひっこんだままだった。涙がでない人間にとってはこのように泣けるというのは驚異なんだ。そこまで悲しくないだろっていいたいのは私だけかな。上映時間は2時間程だったが、その間チョコレートをにぎりしめていたら、溶けてどろどろになってしまった。この後始末が大変だった。なんでいつもこのようなことがおこってしまうのだろう。帰りは歩く元気もなくバスに乗った。バスって便利な乗り物だとまたこんなところで感動してしまった。

 次男は本日、金曜日、実力テストがあると学校に行った。もちろんまったく勉強をしないから本当の実力テストだ。(普段の試験も実力テストに近いものがあるのだけど)彼は実力テストの半分は寝る予定にしているらしい。昨日、友達から電話があってその話しをしたら、かなり驚いていた。普通に考えるとやっぱりこういうのって驚きますね。しかし考えてもわからないものに時間をかけるのは無駄だとはっきりいっている息子に対して有効な手段は今のところないでしょう。

息子もかなり大変だが、息子の友達も大変みたいだ。同じ部活の子が自習時間に教室でサッカーをやっていて靴が窓に飛んで窓ガラスが割れたらしい。息子によると担任の先生が静かに

「おまえ何考えているの」

と言われたのがめちゃくちゃ恐かったようだ。ちなみにその子はわれた窓ガラスのところで正座をして反省をさせられたらしいのだが、それを20人ぐらいのクラスメートが囲み携帯電話で写真をとり、取材したそうだ。息子ももちろん写真をとってきた。これが割れた窓、これが反省している友達、これがそのアップと声がはずんでいた。いったいこの子は何をしに学校に行っているのだろうとまた思ってしまった。

 金曜日から長男は文化祭で学校が休みだ。前の日に

「明日は昼飯だけでいいよ」

と言われた。ということはお昼御飯を作らなければならないんじゃない。時間ぎりぎりまで寝ていて、起きたらすぐにお昼御飯、そして友達の家に泊まりにいってしまった。この前夜、すごくすごく稀なことだが、彼は私の肩を揉んでくれた。ものすごく気味がわるかったが、その理由がなんとなくわかった。

長男は無事に再来週私に韓国に行ってもらいたいのだ。無事に帰ってくるのではなくて、無事に行ってほしいというところがミソだ。先週あたりに何回もいつから韓国に行くのかチェックされた。どうやらその期間、彼はうはうは状態で友達を呼んだり、友達の家に遊びに行く計画をたてているらしい。こうわくわくしている息子を見ると、ちょっと心配だ。その心配をよそに言ってくれた。

「台所も使えるようにしておいてよ」

大丈夫かなあと心配のダブルが波打っているこの頃だ。



今週のomi



2003
1024


 日曜日の新聞広告で選挙の不在者投票のアルバイトがのっていた。期間一週間で時給1200円とものすごく条件がいい。さっそく申し込んで面接にいった。年令不問とあるのもいい。年輩の人ばっかだったら、見込みがあるじゃない。と蒲田の区民センターに乗り込んだのだ。エレベーターの下で私より年輩だなあと思われるおばさんに会釈された。面接ってこんな感じなんだなあと心がなごむ。会場の4階に行くと、面接会場と書かれた部屋があった。何人かの年輩のおばさん達が用意している。そこに行き、

「すみません」

と声をかけた。するとひとりのおばさんが

「あっ、ネームプレートをとってください」

と言う。しかしネームプレートの中には私の名前がなかった。それを言うと

「はじめてですか」

と言われた。もちろんはじめてだ。こういうのって一度登録しておくと選挙のたびに声がかかるんだ、とちょっと心がはずむ。

「これをもって中へおはいりください」

と用紙の束を渡された。その時、はじめてちょっと様子がおかしいぞと思った。う〜ん面接会場ではないのかと聞くと、

「あっ面接なの。ここじゃないわよ。どうりで若いと思った。」

と言われた。よく見ると、面接会場と書かれている紙の下に矢印がついていた。なんでこのようなまぎらわしい書き方をしているのだ。
 

目的の会場にいくと、若い主婦層がどんと固まっていた。私の希望はこの時点で打ち壊れて絶望へとつながっていった。なんで年令不問というのにこんなに若い人ばかり集まるんだろうか。たかがアルバイトの面接で3倍という難関をこえることができずにまた自分の年を感じなければならなかった。もうこの髪を染めてやろうかなとも思った。(私はお化粧するのもきらいだし、髪を染めるのもきらいなんだ。)そして会場を出て先程の部屋の前を通った時、

『シルバー教室』

と書かれているのに気付いた。係りの人は何の違和感もなく私を受け入れようとしていたなあ。とまたうちひしがれて家路についた。

 夜、長男にこの話しをすると、そんなに人が集まるのに1200円というのはおかしいよな。と私の心を少し軽くするような発言をしてくれた。そうだ。時給1200円というのはどう考えてもおかしい。ずっと働きぱなしではないしその日に投票に来る人がいるかどうかもわからないのだ。それなのに1200円。しかも8時間を越えた時間は25パーセント増しなんだ。付け加えてこの仕事は派遣会社からまわされており、選挙管理委員会はこの時給よりはるかに多いお金をこの依託会社に払っているのだ。それって結局私達の税金ではないか。考えれば考える程腹がたってくる。保育園だって時給にすれば、1000円もしない。同じ区の仕事でなんでこんなに違うのだ。

「お母さんは選挙管理委員会に公開質問状を送ってやろうかな」

と言うと息子は

「たちが悪いよな」

と一言いった。しかしアルバイトを見つけるのもたいへんだ。文句だっていいたくなるよ。

 今週、次男は試験中だ。この試験にもたいへん心が痛む。なぜここまで勉強しないんだろう。しかも赤点だけはとらないように計算している節がある。試験中、朝、学校へ行った後机の上を見ると、毎回その日の試験科目のノートやプリントが散乱している。試験の直前にもう一度これらのプリントを見ることはないのだ。一度それを正したら、

「そんなことをしたって同じだよ。」

と説得力があるような、ないような返事が帰ってきた。しかも試験中は早く帰宅するので昼間おもいっきり寝る。いつもより睡眠時間が長い程だ。一昨日はあんまり寝ているので、夕方5時に起こしたら、睡眠不足で眠くてどうしようもないといって夜はまた12時に寝た。これではどう考えても勉強時間がない。今週一杯いらいらしなくてはいけないかと思うとうんざりだ。

 昨日、おばから電話がかかってきた。そして我が夫がたいへんおもしろいというのだ。そりゃ、人から見ればおもしろいでしょうが、この人と一緒に暮らすのは大変なことなのだ。夫は香港に10年いた。ひとことで10年というが、あの性格で10年間を海外で過ごしたのだ。それは家族やまわりの者にとっては想像を絶するものがある。その10年のなかでもきわだってすごいのは強盗犯人と間違えられてことだ。

夫の会社は香港の一番の繁華街にあった。銀行や商店街が多いところだ。時々、友達と買物に行くと昼間からぶらぶらしている夫の姿を偶然みかけたものだ。(はっきりいって勤務時間中、街中にいるのだ)そしてある日、友達から電話があって、

「今セントラルは大変よ。(セントラルというところが夫の会社のあったところです)宝石泥棒がはいってあたりは立ち入り禁止になっている。地下鉄も犯人が逃げたということでとまっているわ。事件の直後にお宅の御主人にあって、危険だから行かない方がいいと言われたのよ。」

と大阪弁で報告を受けた。また勤務時間内にそういう所をうろうろしているのだからろくなことはないだろうと思ったのだが、夕方、テレビをつけて日本に電話をしていたら、見なれた顔がテレビに映っているではないか。思わず電話も忘れて、

「お父さんだ」

とさけんだ。しかも夫は白いハンカチを手に持ち、手をあげてビルからでてくるではないか。そのビルの回りは銃をもった軍隊でかためられてて、夫はビルをでてきて、身分証明書を見せるところまで映されたのだ。電話の先では母が何ごとかと心配している。それどころではない。一旦電話を切ってずぐに会社に電話をしたがいつものようにいない。(日本、香港を問わず会社に電話をしてでたためしがないし、携帯に電話をしてもつながらない)夜おそく帰ってきた夫から話しを聞くとまたくらくらしてしまった。

ー夫の話しー

いやあ、今日はまいったよ。Aさんとプリンスビルでお茶を飲んでいたら、急に店内がざわざわして誰もいなくなったんだよ。(Aさんとは当時の夫の会社の社長ー2人で勤務時間にさぼっていたんだ)あまりにもおかしいから喫茶店から廊下を見ると誰もいないんだ。これはおかしいとAさんと一緒にでていったら銃をかまえた警官が見えたんで、白いハンカチをあげてでていったんだ。(その間にどういうわけかAさんとはぐれたらしい)そしたら囲まれてそのまま外にだされたんだ。犯人としてでてきた所をテレビに映されちゃったよ。夜、飲みにいったら、のみやの店員がテレビを見ていて「あっIさんだ」って大声あげてさ、時の人になってしまったよ。

本当に話しを聞いていてもなさけなかった。香港でこのような形でテレビ出演をしたのは夫だけであろう。しかも本人は全然気にしていないところもすごかった。電話をかけてきた友達にこのことを言うと

「でも変だなあ。事件の直後に危ないから逃げた方がいいといわれたんだよ。」

そうなんです。その危険な区域にわざわざ、しかも勤務時間中にお茶を飲みにいったのだ。友達もわけがわからなかったが、私もなんて説明すればいいのかわからなかった。とにもかくにもその当時ある意味で時の人となったことだけは間違いない。


今週のomi



 中国で有人ロケットの打ち上げが成功した。もう3年か4年前から今年だ今年だと言われてきたが、やっとやったね、という感じだ。他国だし、ミサイルの脅威があるといわれていてもやはり感激する。中国大使館にお祝のメールを送ろうかと思ったが、ひょっとして迷惑かもと思いやめた。(こういうところが私の奥ゆかしいところなのです。)

 次男は3年前の自由研究で中国の宇宙開発についてまとめた。当時はまだ少しはやる気があったのだ。わざわざ宇宙子供会議に出席するために上海まで行ったのだが、今から考えるとあまり意味がなかったような気がする。中国のロケット打ち上げについても、そろそろ宇宙開発は金の無駄だからやめた方がいいんじゃん、と言ってくれたもんだ。それなら携帯電話を使うなといいたい。

その次男は火曜日、水曜日と文化祭の代休で休みだった。友達を家に呼んでもいいということになっていたが、結局終日ひとりで家にいた。何かおかしいと思った。友達とけんかでもしているのではないかと心配もした。しかし心配は他のところにあったのだ。気付けば来週から中間テストなのだ。友達は遊ぶどころではなく、勉強していたのだ。息子は勉強するなんて考えもしなかったといって、教科書はまったく家に持って帰ってこなかったようだ。終日ビデオをみたり、ギターをひいたり、呑気に過ごした。私はその姿を見て、いらいらいらいらした。絶対に精神衛生上よくない。食べて食べてまた太った。私が太っているのはこの馬鹿な息子達のせいだと思う。

 金曜日、再び母から電話がかかってきた。私は2人姉妹の長女だ。いくら長女といっても限界もある。妹は結構呑気に過ごしているので、少し負担を分担してもらいたいと常々思っているのだが、なかなかうまくいかない。

今回は「明日JRで歩こうという企画に参加するので、一緒に行かないか」ということだった。蒲田から川崎まで川崎大師などに寄りながら10キロを歩くというのである。母はこのような企画によく参加する。そしていつも友達と一緒なのだが、今回はその友達が用事があるということで不参加なのだそうだ。今回もしかたがないので「行く」ということにした。母は元気なのだが不整脈もあり、やはりひとりで10キロを歩かせるというのはひやひやするものがあるのだ。

土曜日当日、今日は何かあったな、という予感が見事に適中した。保育園の運動会だったのだ。マンションの下で保育園の園児に会ってはっとしたが、後のまつりだ。蒲田で受け付けをして歩き出す。想像はしていたが、このような企画の参加者は老人ばかりだ。老人といっても絶対に元気で歩くのもはやい。老人が一番元気な世の中といっても過言ではないと思う。その中にまじって蒲田からえらく遠回りをして六郷橋にいき、そこから直線で川崎に行かず、川崎大師により、川崎駅まで歩く。50年以上も前に母は大師中学に教育実習生にきたことがあるといってそのころの様子などをはなして満足げだった。

「このあたりはなにもなかったのよ。駅を降りて大師様の境内をあるいて中学校にいったの。中学生とざりがにも釣りに行ったのよ。」

と、どのように想像していいのかわからない私をかなり無視して話し続け、それだけでは足りず、お土産物やさんのおばあさんをつかまえて、

「このあたりに大師中学はありませんか」

と場所まで確認した。しかも聞いただけで土産物は買わなかった。川崎大師ではさい銭なしで次男の合格祈願と卒業祈願(高校卒業を祈らなければいけないという現実がある)をした。この道中覚悟はしていたが、私が手荷物をもつことになった。(そうなるだろうと私は全くの手ぶらで行き正解だった)母はお弁当を作り、雨がふるかもしれないと折りたたみの傘まで持参していた。弁当だって傘だっているようになれば途中で買えばいいじゃないと思って手ぶらできている私は自分の考えとはうらはらにそのような荷物を持つはめになっても絶対に文句をいってはいけない。なぜなら相手は母だからだ。結局9時に蒲田を出発して11時半には12キロの道中を歩き川崎にゴールし、弁当も傘も必要なかった。

 長男は木曜日に明日は泊まってくるかもしれないといっていた。そして金曜日はもちろん家に帰ってこなかった。学校の近くには友達の下宿先が何件かあるらしい。そこをかたっぱしから泊まり歩いているのだが、今回はその中のひとりの子の下宿先に転がり込んだらしい。群馬からきているという以外に私には情報はない。そして土曜日、

「今日も泊まるから」

というメールが一本きた。我が家だってひとりいないと人口密度が低くなり快適ではあるが、このように泊まり歩いていいものかと少々不安でもある。そして日曜日、やっと帰ってきた。手にはなにか紙袋をさげている。

「それ何?」

と聞くと、

「おみやげ」

と言われた。どうも相手の子のいらない服をもらってきたらしい。しかも髪の毛まですっきりしている。散髪もしてもらったらしい。大学にはいってから散髪はずっと友達にしてもらっているのだが、それが気に入っているらしく、床屋代がういている。

「食事はどうしたの」

と聞くと、

「作ってもらった。あいつ作るのうまいんだ、お母さんよりもおいしい」

と言ってくれたものだ。なにか家庭的な友達をもったものだと感動した。その友達の話しが今回、はじめてでた。

「あいつ高校の時、理系でびりだったらしい。クラスから5人も東大にはいったんだって」

とここまで聞けば、どこの高校か知りたいと思うではないか。しかし長男はその子の出身高校は知らないままだ。どこか抜けているなあと再び思った。

 その長男に今朝、

「頭の悪いやつはきらいだ」

と言われた。私はびっくりして物も言えなかった。それは私のせりふだろうが。なんてことを言ってくれるのか。はっきり言っておきたい。

「馬鹿なのはおまえの方だ」

今週のomi



2003
1011


 『今週のomi家』は入院中の保育園の先生あてに書きはじめたけど、少し友達に配信するようになった。馬鹿な話しにうえている人が多いのかも。。

我がomi家はそういう方々にとっては癒しになるのかもしれないけど、絶対に踏み込んではいけない領域でもある。

 先週、保育園の仕事が終わってから、息子の修学旅行期間の過ごし方(なんやら夏休みの過ごし方という学校の決まり文句のようだ)を熟考した。で、やはり韓国に行くことに決めた。これが今週に決めていたらロンドンになっていただろうな。このあたりの運命ってちょっとおもしろい。(友達の御主人がロンドン勤務になって友達がロンドンに住んでいることを今週知ったのです)

ひさしぶりに「地球の歩き方」という本を買った。この本って私の若い頃にはなかったのだが、本当に便利にできている。そしてあまりに真剣に読んだために頭が痛くなって寝込んだ。この頃は新聞だって斜めに読んでいるので、真剣に本を読むという行為をめったにしない。人間の退化とは恐ろしいなどとひとりでつぶやいた。どうして韓国にこれだけいれこんでいるかといえば、前にも書いたように韓国ドラマの影響だ。それから今までと違ってインターネットによる情報も大きい。紀行文をホームページにのせている人が多いし、それを読むといとも簡単に韓国にいけるような気分に浸れるのだ。そしてとうとう先週、蒲田の交通公社にいって航空券を手にいれた。(まだ予約の段階ですが)ソウル往復で空港税込みで3万円。結構、交通公社にしては安い。そしてなんといっても交通公社でチケットを買うと飛行機の時間をある程度選べるのが利点だ。

1110日は次男が朝7時前には家を出る予定だ。そこでなにげに家を送りだして、成田に向おうとお昼頃の飛行機を選んだ。帰りは次男が京都を出る1時ぐらいに成田に到着する予定だ。本当に計算上は完璧だ。しかし過去において息子達はこの緻密な計算をことごとく打ち砕いてくれた。長男は高校入試の前の日に熱をだしてばたばたしたし、その何日か後に試験のあった次男も前日に熱をだして夜中に荏原病院の救急にかけこんだ。また長男は高校の修学旅行の前々日(ちょうど試験中だった)に熱をだして、試験は休むは修学旅行はどうなるのかと気をもませてくれた。(書きながらだんだん心配になってきた)とにかく、何かあるという時に絶対あってはいけないことがあるのが我が家の特徴だ。しかし今回はそうはいってられない。

交通公社で航空券を決めると、係りのおねえさんはお宿はどうしますかと尋ねてきた。値段を聞くと9000円以上のホテルだと予約できるということだ。なんで安いチケットを買って高いホテルに泊まらなくてはならないんだ。そこで宿はいいです、と答えるとおねえさんは心配そうな顔をして大丈夫ですかといってくれた。一度でいいから息子達にこういう言葉をかけてもらいたい。そして宿さがしを本格的にはじめたところ今週のはじめ、インターネットで韓国のサイトから安い宿を予約できることがわかって、さっそく予約した。1泊4000円で、バストイレつきだ。予定より1000円も高かったが、やはりトイレはほしい。この話を大阪のMにしたら、

「私は高級なのに慣れているからそんな旅行はできないわ。」

と言われた。彼女はおもしろい友達のなかでもぴか一だ。やはり香港の時の友達なのだが、どうしてこのようなおもしろい人間ができたのかよくよく調査したいものだ。彼女は来週、友達と箱根の一泊2万円の宿に泊まりにいくそうだ。次回、私はせいぜいよだれをたらしてその話しを聞くことにする。

話しがそれてしまった。でソウルに3泊の宿は予約できた。この宿はモーテルなんだけど、日本でモーテルというとあまりいいイメージではない。アメリカではモーテルって普通の宿だから、現地にいる間はモーテルに泊まったといっても何の問題もないのだが、日本に帰ってきてからは、モーターインに泊まった、と言葉を変えて言っていたものだ。今回は身内にはビジネスホテルに泊まるといっている。本当に厄介だ。もうひとつはソクチョというソウルからバスで4時間ぐらいの所に行きたいのだが、そちらの宿はどうしても予約できる所が見つかっていない。多分このままいって、いきあたりばったりで宿を見つけることになると思う。このソクチョという所はドラマの舞台になったところで、テレビの中の風景を生でみたいというのが私の願望なのである。私は今、この時点では自分があの美しいヒロインになったと夢をみながら旅をするだろうと想像しているが、きっと行ったら、

「まったく言葉は通じないし、荷物のせいで肩はこるし。。。」

と言うようで恐ろしい。現実に勝つものはないんだ。という具合に計画進行中だ。また新たな曲面を迎えたら、書くことにする。

 長男の友達のおにいちゃんが36才のバツ一の女性と結婚すると騒いでいるらしい。まだ大学生だ。家中で大騒動になっているようである。私は我が家ではこんなことはないだろうと思いつつ、友達の母親に同情してしまう。恋愛なんか絶対に悪いということはないだろうけど、自分の息子がこのような状況に陥ったら困ると思うのが親だ。しかし息子や息子の友達達(当事者の弟を含めて)はこれをかなりおもしろがっている。その女性は友達の家によく来るらしい。(たいした度胸だ)そこでこんど来ている時を見計らってみんなで遊びにいくらしい。息子は「お母さまですか?」と尋ねる係だという。友達それぞれが言うことが決まっているとのことであるが、そのようなことに頭を使うのだったら、もっと有効な頭の使い方があるだろうと言いたい。本当にお気楽に生きていてうらやましい限りだ。

 次男は今週末が文化祭だ。文化祭に参加していたのは中学の1、2年生の時だけで、今回もまったく参加しないようである。私が次男の文化祭を見にいったのは1年の時だけである。1年の時はまだかわいかった。母と私がいってもいやがることもなく、クラスの催し物に参加していた。2年の時は部活でおばけ屋敷をやるというので、朝5時頃家をでていった。私は息子が出かけた後をなにげなく見ると、これは忘れ物と思うものが床においてあった。そこでいそいでタクシーで(朝5時すぎにです)学校にそれを届けると露骨にいやな顔をされた。そして帰ってくると

「もしどんな土砂降りの雨が降ったとしても傘をとどけなくていいし、絶対に届けものはしないでくれ」

と言われた。こんなことってあるか。因にこのおばけ屋敷は女の子(女子高から女の子がいっぱいきて、それを楽しみにしている子もいるらしい)からの苦情がかさなり、この年を最後に2年間催していない。どうも暗がりの中で女の子にさわったりした子がいるようだ。まだ2年生だった息子は「先輩が女の子さわっちゃったって喜んでたよ」と興味津々で伝えたことがある。去年は文化祭=帰宅というパターンだった。今年は何をしているのかわからないがまだ帰宅していない。どこかで遊んでいるのかもしれない。年々厄介になっていく文化祭である。

 本門寺のお会式の日、叔母夫婦、いとこ達夫婦が実家に来た。前にも書いたが引っ越ししたばかりの叔母の一家だ。今回来たいとこは一番上の長男と一番下の次女である。この真ん中にもうひとり長女がいるのだが、今ニューヨークにいる。今回来た次女は身内をほめるのもなんだが、なかなか賢く某国立大学の大学院を卒業している。連れ合いも同じ大学の卒業生である。因にこの連れ合いの御両親はお二方とも某国立大学の教授である。四ヶ月になる双児の子供がいるが、心なしかこの子達も賢そうだ。そして長男。この子は私とひとまわり違うので、今年年男だ。大学入試の時は私がちょっと英語を教えたこともあって、親戚のなかでは一番かわいい。(といっても身長190センチもあるですが)ところがこの長男と我が家の犠牲者である主人は波長があうのだ。血縁関係はないのだが、2人を一緒に会話させてはいけない。ところが昨日はたまたま席が隣同士になってしまった。(狭い家で席替えというわけにもいかない。)そして昨日の酒のさかなは我が家の次男だった。

叔母ー「T君は東大に行くの、慶応にいくの」
  (叔母は次男がどれだけ学校でできないかさっぱりわかっていない。)

主人ー「いや〜〜勉強しないしできないんで困っているんですよ。お宅の息子さんがどんなに大変でもうちはその上手ですよ。」

(いとこも実は大変な子でした。小学校の時、学校の桜の木の枝を折ったということで叔母は怒られ、いとこはその枝をひきずって家まで持って帰って来たことがある。)

いとこ 「そうだな。オレは『はい』って返事しかしたことなかったもんな。(次男にむかって)ところでもうクラブとかいっているの?」

一同沈黙。

私ー 「変なことおしえないでよ」

叔母の目はもう三角になっている。

主人 「クラブってキャバクラのこと?」

いとこ「それはそっちでしょ」

 (いとこの話しの展開のしかたもちょっとおかしかったが、なんで主人が自分の高校生の息子がキャバクラに行っているという話しの展開にさせるのか私には理解できませんでした。)
 
主人ー(いとこに向って)「子育てって本当にたいへんだよ。うちは水泳、   スキー、テニスって全部、私もやりましたよ。」
 
(よくそんなことが言えるもんだ。泳げるようにさせたのも私がプールにはいってやったし、スキーだってテニスだって私が設定した。主人もちょっとはやったかもしれないけど、決して人様に言える程ではない。)

いとこー「じゃあできないのは勉強だけだ。」

帰宅すると息子は絶対にもうあの集まりには行かないとはっきり言いました。 なんとなくわかるような気がする。

 本日、月曜日。主人はそそくさと高崎に帰った。私も結構我慢の限界だ。朝6時に起きて洗濯したバスタオルがかわいたので、雨が降る前にかわいてよかったととりこんだ5分後に主人は起きてきて、そのバスタオルで顔をふいた。なんでしまおうと思っているバスタオルで顔を拭くかな。朝ごはんは前日の宴会の残りだったが、御飯をたいて、あたためるものをあたためて用意しておいた。すると次男が食べていたケーキを見て、

「僕もケーキ食べようっと」

といって自分でケーキをだして食べていた。用意しておいた御飯は残ったままだった。次男の修学旅行中に韓国に行くといったら(主人に言わずに計画をすすめていた)

「いいですね〜。」

と一言いったきりだった。なにもうるさく言われなくていいのだが、こんな簡単なのもがくっとする。毎回、やはり「夫とうまくいっていない会」を脱会することはできないなと思うのである。



今週のomi


2003101
 

私はよく写真をとる。しろうとで上手でないのがわかっていても写真を撮るのがすきだ。これはひとえに私の写真の師匠とでもいうべき方が、いらっしゃったからである。

昔、北海道を旅行していた時に汽車の中でセミプロの写真家のおじいさんと一緒のボックスになった。(昔の鈍行列車を考えてください)もちろん昔から貧乏旅行しかしたことがなかったので、この時もユースを使い、情報を得て歩きまわっていた。そしてその汽車の中でこのおじいさんの話しを聞き、これだと思った。何がどうとはっきり言えないのだがこれだと感じるものがあったのだ。このおじいさんはそのまた昔、南極観測船に乗り南極まで写真をとりにいったことがあるという方で、その旅行中も自分の写真を何枚か持っていらした。

『写真というのは枚数をとらなければならない』

という大前提をこの時覚えた。持っていた写真は函館の教会や釧路の丹頂鶴のもので、めちゃくちゃきれいだった。こんな写真をとれたらなあと思った。そしてその時、私達がオホーツクの白鳥がきれいで、降りて来る時氷の上をすべるんですといったら、じゃあ白鳥をとりに行こうとすぐに決められた。この行動力。

その時函館に住んでいらしたこのおじいさんの住所をお聞きして、10年程前になくなるまで年賀状やクリスマスカードの交換をさせていただいた。亡くなる少し前、奥様からお電話をいただき、もう話せないけど電話したいというので変わりにしましたというのが最後だった。亡くなられて奥様から形見の写真をいただいた。一生のうちでこの汽車の2、3時間の間の出会いだったのに、このようにしていただいて本当にありがたかった。この出会いがなかったらここまで写真を撮っていなかっただろうと思うと感慨深いものがある。

 保育園が終わると何かがあるなと思っていた。そして母から電話がきた。

「おばさんの引っ越しの手伝いにいくから一緒にきて」

母からのこの種の電話は突然くる。そして余程のことが無い限り断ることはできない。これで断ると母との関係は2、3ヶ月こじれる。なんでこうなるのかなといつも思うのだが、絶対にこじれる。そしてそのこじれかたが尋常ではない。それがものすごく疲れるのだ。だから断れない。叔母は母の妹で、この2人がそろうと無敵艦隊だ。しかもあろうことか叔母は実家の近くに引っ越して来るのだ。その引っ越し前のそうじに今回は行かせられるのだ。私は手伝いがきらいなわけでは決してない。それだけは確かだ。しかし今回の手伝いは要注意だ。何がどうとはっきりいえないところに今回の手伝いのむずかしさが潜んでいる。

電話の翌日、母は私が住んでいるマンションの下まできた。母は電話で、

「明日は歩いていくから」

と一言いってくれていた。彼女は決して若くはない。あと何年かで80才だ。しかし昔、バスケットで鍛えたからだは今も健在である。(これは心から感謝している)会うとすぐにどっちから行けばいいのかしらと言われた。きました。きました。ここでもたもたしてはいけない。「S小学校の横をまっすぐよ。」今回はすぐに返事ができた。まず第一関門合格だ。母は歩いていくと自分でいっていながら、違う方だと思っていたらしい。途中で何度も間違っているんじゃないと問われた。これで知っている所だからいいものの知らない時なんか、どれ程大変な思いをするか想像してください。それが近くであっても、外国であってもいっしょだ。一緒に海外旅行して、それが私にとってはじめての土地であっても

「どうしてわからないの」

と言われる。母と旅行をする時はガイドブックを穴のあく程読んで、頭の中にたたきこんで、決して迷ってはいけない。これが鉄則だ。そしてどんどん歩いて行くと、突然こんなに歩かされて、とか暑いのに考えも無くという言葉が飛んで来る。だからどのような時でも決して力をぬいてはいけない。あと旅行を計画して、旅行会社にお金まで振り込んでほっとしていても

「やっぱり行かないわ」

と言われる時もある。どのような時も最後まで気が抜けないのだ。
 S小学校の横を真直ぐに歩いて、D高校のあたりに来た時、

「どうしてこんなに道を知っているの」

ときた。ここでも明確な答えをだしておかないと後が大変だ。息子のサッカーのくじでD高校にきたことがあってよかった。

おば夫妻は、今まで別々にくらしていた息子夫婦と一緒に暮らすことになっている。その息子であるいとこもきていた。この子は私とひとまわり違い、高校生の時に英語を教えたことがある。産まれた時から知っているのでかわいい。そしてこの子の特徴はこの老姉妹をうまく扱うことができるのだ。母は掃除の手伝いと称して来たが、結局まずはいすにどっかと腰掛けた。まあそうなるだろうとは容易に想像できてた。

そこでこの3人を残し、私は掃除をはじめた。この時も私一人でと絶対に思ってはいけない。とにかく3人は話していたらそれでいいとしなければならないのだ。いとこは仕事の途中ということですぐに帰っていったが、おばと母はえんえんと話しが続く。そしてとうとう2人がいるリビングの掃除になったのだが、やはり母にいわれた。

「なに丸く床ふきしているの。」

もういいかげんにしてくれ。そして部屋の掃除が終わるとおばは言った。

「今日はもういいわ」

そしてさっさと窓を閉めていったのだ。(おばはいつも結構私に気をつかってくれている)母はすかさず

「金曜日は引っ越しだから手伝いにきなさい」

といってくれた。私はありがたくその言葉を頂戴した。帰りがてら3人で近くの駅にあるレストランで食事をして、最後まで私は警備をとくことなく過ごした。

母とふたりになり、今度は本門寺のお会式に叔母夫婦といとこの夫婦を呼ぶことにするからと宣告された。

「月曜日にお料理の下見にデパートに行くからついてきてちょうだい」

これで私は来週、月曜日と金曜日とお会式前の土曜日と当日の日曜日が自動的につぶれた。本当に本当に保育園っていい所だった



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