父の死
2009年4月29日


2009年4月17日午後6時半に父は亡くなった。
84歳だった。

父は神奈川県生まれ。
父の父方の祖父は熊本の細川藩の家臣だった。
母方の祖父は浅草に百軒長屋を持っていた士族だったという。
安政の大地震で浅草を去ったらしい。

父の父は富士紡績のエンジニアだった。
川崎にいたこともあったし、父が小学校時代は浜松にいたらしい。
最後は中国の奉天(今の瀋陽)で亡くなった。

父は大学を卒業してから、保険会社に勤務しており、定年後は家で、趣味の将棋をしたり、omi家が香港にいた時は何回か香港にきたりして過ごしていた。
父の母はあと2日で100歳を迎えるまでの長寿で亡くなったので、父も自分もそうなるだろうと思っていたようだ。

晩年、歩くのが不自由になったりしていたが、それでも北京オリンピックの年のお正月(一昨年)は妹達の家族とomi家の家族と一緒に北京に行ったりもしていた。
北京に行く少し前に、歩行中に道路で倒れたことがあり、ひょっとするとその頃から体調の多少の変化はあったのかもしれない。

北京から戻ってきて、2ヶ月後のいつもの病院の定期健診で数値が悪いところがでてきて入院になった。
病名は糖尿病。食事の管理が必要ですと医者から言われた。この時点で、平常値とかなり違う数値がでているところがあって、医者はそれを気にしていたが、検査ではそれが何かということが見つからなかった。

そして退院してさらに二ヶ月後の6月の検診の時に、数値が更にひどくなっているということで、再び入院。その時の検査ですい臓がんが見つかりあと三ヶ月の命ということを宣告された。

本人に負担な治療はしないことと本人にはガンだということを知らせないでほしいとすぐに言えたということは、家族もひょっとしてと思っていたからだと思う。

あと三ヶ月ということでなんとか北京オリンピックは見てほしいということになった。
母は食事の徹底的な管理をし、妹はがんにきくお茶の購入や栄養剤の購入、おばからもガンにきくといわれる栄養剤が送られるようになった。
父がガンだということを知っていたのは実は母と妹の家族、omiの家族、父の妹のおばだけだった。
本人に知られないようにするためにあとは糖尿病だということでとおしていた。

そして8月の北京オリンピック。
父は比較的元気にオリンピックの見たい種目はすべて見ることができた。
食欲もあり、やせてはきていたものの、将棋をやったり、普通にすごしていた。

秋の検診の時は年内いっぱいもつかどうかと医者に言われた。
それでもお正月は家族と一緒に過ごすことができたし、おせち料理もまったく普通に食べることができて、穏やかだった。
12月は母のお誕生日もあり、外食もこのころすることがなくなっていたので、近くの和食のレストランで妹と4人で食事をした。
これが父にとっては最後の外食となった。
父は
『昔に比べると食べられなくなった。』
と食事を少し残した。
父はこの頃から歩くのがかなり大変になってきた。
この日はひさしぶりの外出で疲れたようで、帰ってくるとすぐに寝ていた。
思えばこのレストランもよく予約をいれることができたと思う。
一週間ぐらい前だと予約がはいらないお店なのに、たまたまその日は3日前の予約で部屋をとることができた。

年があけてから父は弱ってきた。
1月の検診では医者に一ヶ月もつかもたないかと言われた。
しかしそれでも食欲はまだあり、病院にも行くことができた。
相変わらず、毎週刊行される将棋新聞とスポーツの雑誌はかかさず読んでいた。
毎日、日経新聞も読んでいた。

3月の検診の時からは父を病院につれていくのがかなり大変になった。
検診が終わると家族の方がほっとするほどだった。
病院でも手をつくし終えていた状態だったが、先生はゆっくりと応対してくれた。
母には痛みがでたりした時の対処方法などもはなしていたようだ。

4月6日は最後の病院の検診になった。
この日は病院に歩いていくことが大変で、母も妹も私も付き添った。
次の検診は連休の前にしましょうという先生の指示だったが、連休に家族で集まるということを母が話すと、先生は連休の後に検診を変えてくれた。
次の検診ではもう入院は間違えないという判断だったのかもしれない。

4月の3週目になると父の体調には大きな変化が見られた。
亡くなった週の月曜日の夜遅くに母から電話があり、トイレに行こうとしているけど、座り込んでたてなくなったと言われた。
すぐに実家に行くと父はベッドの横でなんとか立とうとしていた。
この時までも何回か立てなくなったことはあったが、それでもなんとかクリアしてきた。
しかしこの時はもう力がまったくなく、ベッドに行くこともできなくなっていた。
父は体が大きかったので母ひとりの力では父を動かすことができなかった。
母と一緒に父をかかえてベッドに寝かせたのは真夜中をすぎていた。

これからはこういうことが頻繁にあるのだろうなあと思った。
その日の夜中は大変だったのが、翌日の火曜日は平穏に暮らせた。
火曜日はいつも将棋新聞の発効日だったのだが、この日は一日仕事で買うことができなかった。
火曜日の夜に父に会った時に
『将棋新聞は明日買ってくるからね』
と言った。
父は将棋新聞を買ってきてくれるのを一日待っていたようでもあった。

翌日の水曜日は仕事が休みだった。
朝一番で、将棋新聞を買いに行き、届ける。
その後、池上の和菓子やに柏餅を買いに行く。
朝、父に会った時は比較的、元気だったのでなんとなく安心して、写真を撮りながら、池上のあたりを散策して、和菓子やに向かった。
父はみそ餡の柏餅がおいしいと言っていたので、みそ餡を買おうとするが、売り切れだった。
しかしまた午後にはできあがるというので、でなおして買う。
ちょうどおやつの時間に間に合った。
父は柏餅を食べて、その後、昼ねをした。

夜になり母から電話がはいった。
『父の様子がおかしい』
いそいで実家に行く。

父はトイレに行こうとしたが、また途中で立てなくなってしまったらしい。
廊下で座り込んでいたが、あきらかに目の様子がおかしかった。
いそいで次男を呼ぶ。
次男がきたら救急車を呼ぼうということになった。
父は手を前にあげて誰かを呼んでいるような、何かを求めているような格好をした。
ひょっとしたら、この時、父は自分の父親や母親の姿を見ていたのかもしれない。

父は廊下に寝かされた。
寒くないようにふとんをきせた。
次男がはいってきて、
『おじいちゃん』
というと、父は
『力強い味方がきた!』
と喜んだ。
そしてそれをきっかけにして、父の目がもとに戻った。

次男は父をトイレにつれていき、ベッドまでつきそって寝かせた。
実は次男はこの前の週に就職が内定した。
父はそれをとても喜んでいた。
この時も
『おじいちゃんTは就職内定したのよ』
とまた言った。
そういう会話が父をまた現世に引き戻したのかもしれない。

木曜日は一日仕事だった。
夜、実家に言った。
父に昨日はTが来たでしょ、と話すとTと話をしていたのにまったく記憶がないと言っていた。
廊下に倒れたがその後の記憶はなかったのだ。
一緒にフィギュアスケートを見ていたが、つらそうになってきたのでベッドにねかせた。
火曜日は湯気がいっぱにお風呂場でシャワーを浴びたのだが、この日はもうシャワーをしたくないといったので、そのまま体をふいただけで寝る。
浅田真央が演技をする時になって、母と一緒に真央ちゃんがすべるよ、と言ったのだが、父はテレビを見ないで寝た。

金曜日は午後から仕事だった。
午前中、実家に行く。
部屋にはいると父はもう自分の椅子に座ってお茶を飲みながら、テレビをみていた。
母は前の晩は一時間おきに父に呼ばれていたらしい。
母はかなり疲れていた。
この日からomiも実家に泊まることにする。
母は美容院に行きたいと言った。
気晴らしが必要なんだと思った。
omiが留守番をしているから行ってこられるよと言った。

母がでかけると父は椅子に座ったままで、omiは父のベッドにねっころがって一緒に大リーグの試合をみはじめた。
父は試合を見ながらいろいろなことを話した。
オバマ大統領のアメリカでの人気、ルーズベルト大統領がなぜ4選できたのか。
イエール大学は昔は水泳が強かったこと。ちょうどその日の朝刊で、法科大学院の定員が削減されることがでていたので、そのことも話していた。
法科大学院は何年かかって卒業するかとか、中央大学の法学部は優秀であるとかそういう話をした。
途中、おばあちゃんはどこに行ったのか聞かれたので美容院に行ったと伝えた。
すると
『美容院って高いんだろ?』
と聞いた。
父がそんなことを話題にするなんてはじめてだった。
さらに
『女の人は化粧代も高いだろ?』
とまでいった。
ひょっとしてこれは母のことじゃなくってomiのことを心配していっていたのかもしれない。このちょっと前はデジ一のことを聞いていた。
デジ一はいくらぐらいか?
と言っていた。
デジ一を使っているのは家族ではomiだけだ。
それを考えるとomiの財政を心配していたのかもしれない。

大リーグの試合中に朝食を運んだ。
まったく食欲がなかったのだが、イチゴとヨーグルトを食べた。
薬がたくさんあって、時々飲みにくそうにしていたので、ヨーグルトを食べたら薬を一回というようにしてあげた。
本当は食後に飲む薬だったのだが、食後にいっぺんに薬を飲むのは無理だった。
ヨーグルトも途中から食べにくそうだったので、薬を飲むたびにヨーグルトを口まで運んだ。

食事が終わると父は眠たそうにした。
野球はまだ9回までいっていなかったので、父はまだテレビを見るといっていた。
しかし椅子で寝てしまいそうだったので、
『寝たほうがいいんじゃない』
といってベッドに寝かせた。
父は横になるとテレビとは反対側をむいて目をつむった。
『もうすぐおばあちゃんが帰ってくるからね』
『うん』
これがomiとの最後の会話になった。

父は眠ってしまった。
一度眠ると3時間ぐらいは起きなかったので、omiは仕事にでかけた。
入れ違いに母が帰ってきたようだ。

仕事は6時半までだった。
仕事場をでたのはおそらくその10分後ぐらいだ。
仕事場をでて仲間と別れるとすぐに携帯を見た。
母から着信がはいっている。
すぐに折り返し電話をした。

『おじいちゃんがもうだめみたい。早く帰ってきて。』
そのひとことですぐにタクシーにのる。

omiの仕事場は家から歩いて15分ぐらいだ。
実家は歩いて5分ぐらいのところにある。
電話をきって7,8分後には実家についていたと思う。
あとで着信の時間をみたら6時35分だった。

家にはいると、母が
『もうだめだと思う。まだ温かいから行ってあげなさい』
と言われた。
『おじいちゃん』
と声をかける。
眠っているようだ。
しかしいつものような返事はなかった。

すぐに救急車を呼ぶ。
声が震えた。
『父の意識がありません。』
実家のマンションの下で救急車を待った。
その間に次男に連絡。
電話が通じない。
メールをする。
救急車は5分もしないうちについた。

救急車から一度、母に連絡があったらしい。
すでに息をひきとっているようだと母は伝えたらしい。
それでもまだ息をもどすかもしれないと考えるomi.
救急隊の人に
『末期がんですが、本人は知りません。本人の苦しいことは望みません』
と伝えた。

救急隊の方達は手際よく父を運んでくれた。
救急隊は蘇生をしようと酸素吸入をかけてくれた。
父が通っていた病院が搬送の許可をだしてくれ、病院についたのはomiが仕事場を離れてから30分後ぐらいのことだった。

病院では夕方なので非常勤の先生が処置をしてくれた。
しかし、すでに心肺停止で画面の線はフラットになっていた。
すぐに死亡宣告がだされる。
7時半だった。

母によると午後、父は目がさめてから椅子に行くといっていたらしい。
しかし母に椅子に移す力がないので、omiをまっていたらしい。
胸が苦しいといったので、母はさすっていてあげたようだ。
しかしそれもすごく苦しいのではなく、さすると気持ちがいいという程度みたいだ。
母は夕飯の支度をしに
『おじいちゃん、夕飯の支度をしてくるからね。』
と言った。
おじいちゃんは
『うん』
と言った。
これが最後だった。
その後10分ぐらいして、お味噌汁の具をきざんで、食事はいつごろにするかを聞くためにおじいちゃんの部屋にはいろうとしてドアの方からおじいちゃんの顔をみたら、おかしいと思ったそうだ。
おじいちゃんはドアとは反対側を向いていた。
その前の日にイチローが記録をだしていたので、おばあちゃんはその新聞を壁際においてあげていた。
それを見ながら、おじいちゃんはすーと息を引き取ったらしい。

今日から実家に泊まってこれからが大変だと思ったその日のことだった。
あまりにもあっけなく逝ってしまった。
しかし、ガンだとわかった日から、家族の思いは苦しむことなく逝かしてあげることだったので、その意味では本当にありがたかった。

おじいちゃんは自宅で亡くなった。
しかし自宅でなくなるというのはとっても大変だということがこの日はじめてわかった。
医者から言われた。
『警察がはいって、警察病院に搬送されます。そこで解剖ということになりますが、本人のカルテがありますから、そのあたりは警察の方の指示がでます。』
亡くなったばかりなのに、いろいろなことが押し寄せてくる。

次男が病院に来た。
次男はおじいちゃんに会うと泣いていた。
妹達の夫婦も来た。
妹はけっこう気丈だった。
ずっとコンスタントに泣いていたのに警察が来ると、泣きやむomi.

はっきりいって、警察も仕事かもしれないけど、もうちょっと手際よくすすめてほしかったですね!!
同じ質問を何回もされる。
亡くなった日の食べ物から最後の状態までこと細かく聞かれる。
しかも何回も同じことを聞かれる!

警察には言った。
『ずっとここの病院に来てましたし、カルテもありますし、6日にも検診にきています。』
しかし警察は言った。
『最後にきてから10日以上たっているからなあ。』
10日以上っていったって亡くなったのは17日だから11日目だよ!

いろいろさまざま聞かれて、病院の担当の先生や院長とも連絡がとれて、父は警察病院には搬送されないでいいことになった。
父の異変から死亡宣告までが1時間なのに、警察が搬送しなくていいと言ったのはそれから2時間後だった。
先生に死亡診断書を書いてもらい、病院に葬儀屋さんを紹介してもらう。
警察の2時間と比べると、その何倍もの速さで葬儀屋さんは来た。

警察はその後、自宅を見るという。
母も前の晩から寝ていないので、疲労困憊している。
しかし警察をつれて実家に行かなければならなかった。
葬儀屋さんの方を妹達夫婦にまかせて、実家に向かう。

なぜか警察は住所を言っただけではそこまでいくことができなかった。
警察の車をナビするomi.
いや〜〜
もっと所内の道覚えてよ!

omiの実家はこの警察の管轄の一番はずれにある。
運転している刑事さんは言った。
『うちの管轄地区も広いんだなあ。。』

家の中は救急隊がはいった状態になっていた。
さっきまで父が寝ていたベッドも父を搬送した時の状態だ。
台所はつくりかけのお味噌汁がそのままになっていた。

刑事さんは言った。
『御主人が寝ていたように寝てください』
それを母にやらすのは酷だろうが!!!!!!!
さっきまで父がねていたベッドにomiが横たわり、
『こういう状態でした。』
とやった。

そりゃ〜〜
仕事だから仕方ないのかもしれないけど、これを母にやれって言うか!って感じだった。
刑事さんは父がねていたベッドや家の写真を撮っていた。

そのあとダイニングの椅子に座る。
『いいマンションですね』
これってこの場合に言う言葉かなあ。

台所がそのままになっていたので、刑事さんの許可をとって片付ける。
トイレに行くのも許可をとった。
これで、この刑事たちが警察に戻るっていったら、絶対に車に乗せてください!って言わなければとそれだけを考えるomi

調べが終わったところで刑事さんは言った。
『病院まで送ります。』
で、なぜかまた病院の近くまでナビをするomi.
しかも刑事さんはこっちの道がいいと、omiが言った道とは違う道を通ったら一通で通れなかったし!


病院では父がきれいになってまっていてくれた。
すでに夜中近くになっている。

母はこういう日が来ることを確実に予想していた。
葬儀やさんに父の遺体を安置してもらえる場所があるかを聞いたのだ。
実家はマンションだし、夜中に遺体を連れて帰るのは家族はいいけど、周りには迷惑がかかると考えていたに違いない。

安置する場所は比較的近くにあったが、その前に納棺をしなければならないというので、その場で納棺をした。
刑事さんも言っていた。
『苦しんだあとはありませんね』
本当にこれほど眠るようにすっと逝けることってないんじゃないかと思うぐらい楽な死に方だったので、父の顔はまるで眠っているようで、とてもきれいだった。

母と妹達夫婦、omiと次男で父の遺体を棺におさめた。

こういう場合、葬儀屋さんって手際よくその後のことをすすめてくれる。
葬儀屋さんによると、臨海斎場は5日先まで会場がとれないという。
あとは桐ヶ谷だけど、民間なので高くなりますと。
突然、現実に戻ってしまうomi.
実家のお墓は比較的、近い場所にあって、そこの会場はどうかということになった。
夜中なので、それは明日一番で連絡をとりますと葬儀屋さんはいってくれた。

その日、実家に帰ったのは1時近かった。
実家に泊まることにするomi.
何時間か前まで父が寝ていたベッドで寝ることにした。
ベッドはそのままでもよかったのだが、母がきれいにしてくれた。
その間、家に戻り、必要なものをとってくる。
次男はおばあちゃんが一人にならないように、omiが家に戻っている間、おばあちゃんのそばにいてくれた。


よく眠れない一晩がすぎた。
翌日、葬儀屋さんは約束どおり、9時にきてくれた。
その少し前に妹達夫婦もきてくれ、次男もそれと前後してくる。
omiの夫と長男も午前中には来るということになっていた。
父の妹のおばや母の妹のおばも集まる。
そんなに広くない実家は人であふれた。
これがお葬式なんだ。。。

葬儀屋さんは朝一番でお寺に連絡をとってっくれ、ちょうどその日と次の日がお寺があいていて、火葬場もあいていることを確認しておいてくれた。
葬儀っていろいろな方法があるのだろうけど、ドライアイスで冷やされている父の遺体を見ると、長くこのままの状態が続くのは父がかわいそうだと思った。
なるべくはやく送ってあげて、父も母も楽にさせたい。
父が亡くなったのは金曜日で、結局お通夜を土曜日。
お葬式を日曜日にすることにした。

父は高齢だったこともあり、友達も限られていた。
しかも一番仲がよかった友達でさえもここ1年ぐらいはあっていなかった。
母は2度ほどそのお友達に連絡をしたが、連絡がとれなかった。
あと知らせるところはごく近い親戚に限られていた。
以前にお葬式は寂しいほうがいいということを聞いたことがあった。
高齢になって参列者も少ないということは、それだけ長寿だったということだ。
まさに父のお葬式はそうなった。
ただ従姉妹達の小さな子供達がきてくれ、華やかな雰囲気になったので父も喜んでいてくれたと思う。

お葬式というのは人数の確認だ。
親戚に知らせたところでお通夜の人数。
葬儀の参列者の人数と把握していかなければならない。
まだ火葬場までは何台の車があとに続くかとか、いろいろな代金をどこに払っていってと数字がいろいろ並ぶ。

omiはずっと泣きながら、計算ばかりしていた。。。。。。

通夜も葬儀も無宗教の形式にした。
音楽葬ということで、CDも何枚か用意した。
用意している時に、自分の時は神話にすればいいから簡単だ!なんて思ったりした。
結局、音楽は葬儀屋さんが用意してくれた静かな曲にしてもらった。
式はごくごく簡単なものだったが、その後の食事はみんなで話しができてとってもよかった。
参列者が多かったらひとりひとりと話をすることはできなかったと思う。

日曜日は葬儀だ。
omi家の長男は前日は泊まらないで、車をもってきてもらうことにしたので、直接会場にいくことになった。
omiは実家に泊まっていたが、実家に泊まっていたおばと母を妹たちにまかせて、一足先に夫と次男で会場に行くことにした。

葬儀は10時半からだったが、その2時間前には会場についていた。
父は自分がガンだということも知らなかったし、痛みもまったくなかったので、本当に眠っているみたいな顔だった。
悲しかったのだが、父の顔を見ていると、穏やかでいい人生だったのではないかと思えて安心して送ってあげられる気持ちがした。

参列者を待っていると長男から電話がはいる。
長男は車をとりに自分の家に戻っていた。
なんでも羽田の方に行ってしまったという。
高速道路の降りる場所を間違えたみたいだ。

しばらくして長男が到着した。
はじめて自分で買ったという車をみる。
小型のブルーの車だった。

葬儀の1時間前ぐらいになると親戚の人達がきはじめた。
葬儀がはじまる前にお墓へ案内する母。
足元があぶないので長男と次男についていってと指示する。
次男は言ったらしい。
『専属ホストですから。』
長男があわてて戻ってくる。
『お線香お線香』
静まりかえるはずの葬儀の前はなんとなくにぎやかだった。

いとこの子供達もきてくれた。
まだ保育園に行っている子たちだ。
子供がきてくれると和やかな感じになる。

葬儀は前日と同じように無宗教形式の葬儀にした。
挨拶をする時にいとこの子供のKちゃんは独特のお辞儀をした。
頭の前に手を合わせてお辞儀をするのだ。
後で母が聞いたところ、着物をきた人がするお辞儀をしたと言っていたらしい。
たたみに座ってするお辞儀の形をまねしていたのだ。
親族の中で、誰からも期待されているKちゃんMちゃん、かわいいMaちゃんも最後の挨拶をしてくれた。
Mちゃんは小さいころ、父に抱っこされたことがある。
まだまだ歩けないほど小さくて、その頃、もう子供を抱くチャンスなどなかった父が抱っこした最後の赤ちゃんだ。

挨拶がすむと、棺の中にお花をいれた。
母は父が毎週、読んでいた将棋新聞もいれてあげた。
体が花で覆われて、いっぱいになった時に、Kちゃんは父の顔のところに花をおいた。
みんながおもわず笑う。
『おじいちゃんが見えないっていうからね』
と花を顔からどけた。
きっとKちゃんはなぜ死んだ人が見えないのだろうと不思議に思ったのではないかと思う。

葬儀やさんが最後に花束をomiにもってきた。
それを棺の上におく。

葬儀はあっという間だったが、ひとりひとりが思いをこめて参列してくれたと思う。
そういう意味ではいい葬儀だった。

棺は長男や次男を含んだ男の人の手で霊柩車に運ばれた。
omiは救急車や病院からの車にも乗ったので、母と妹が父につきそう。

霊柩車に続く車は6台だ。
長男の車は霊柩車のすぐ後ろについた。
omiははじめて長男の車に乗った。
思えば、長男の運転する車に乗ったのは主人の父がなくなった時だった。
レンタカーをかりて、免許をとって3日目の長男が運転して主人の実家まで行った。
大学生だった長男は社会人に、高校生だった次男は大学4年になった。

臨海斎場までは20分ほどだった。
葬儀というのは式であり、リズムにのってどんどんことがすすめられるという感じがした。
父の棺は火葬場の炉の前に安置され、そこでお焼香をする。
小さな子供達はすべてが不思議なことだったと思う。
omiも全く初めての経験だったので、係りの人に指示されるとおりに動くだけだった。
お焼香がすむと炉の扉はしめられた。

すると係りの人が食事をする場所に案内してくれる。
エスカレーターにのって2階に行く。
Kちゃんがエスカレーターに乗るときに、
『一列になってください』
と真剣な顔をしていっていた。
お父さんのNさんは
『融通がきかないもので。。。。他人のふりをしてください』
と言うので思わず笑う。


火葬が終わったという知らせがはいり、再び1階にいく。
立ち会う人は3人までだったので、母と妹とomiが立ち会った。
火葬が終わった状態でまず確認する。
父は大きかったのだなあと改めて思う。
その後、骨がきれいに集められ、別の場所でみんなで骨壷に収めた。
Kちゃんの目が本当に不思議だという目をしていた。
骨壷に収められた父は次男の手で自宅に運ばれた。

臨海斎場で親戚の人は解散になったが、みんな気持ちをこめてきてくれて、本当に嬉しかった。
次男は父の壷をだいて、妹の家の車に母と乗る。
omi家は長男の車で実家に向かった。

父の写真と骨壷は母の寝室におかれた。
ここが一番落ち着くのではないかと誰もが思った。

父の84年の人生はこうやって幕をおろした。
最後の一年、父はいろいろなことを話してくれた。
自分の親戚のことなど、それまでは聞いたこともなかったのに、そういうことも話した。

父からもらったものは大きい。
これからはそれを大切にしていこうと思う。


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