四十九日の法要 |
2009年6月1日 |
父が亡くなって、一ヶ月以上がすぎた。 この一ヶ月は神聖でいつも父を思い出しながら過ごした感じがする。 父は2009年4月17日に亡くなった。 葬儀が終わり、いろいろな手続きが少しずつ終わり、だんだん普通の生活になりつつある。 その間にも、一ヶ月目の5月17日は一ヶ月過ぎたなあと思い、父の誕生日の5月26日は85歳のお祝いをしてあげた。 父が亡くなったその日から今まで私はずっと父が使っていたベッドで寝ている。 父がやっていたように、寝る前には椅子に座り、テレビを見て、少し本を読んで(これは父とは違い、雑誌ばっかりなんだけど)なんとなく自分が父に似てきたような気がしてならない。 四十九日の法要は5月31日にやるということは4月の終わりに決めた。 法要といっても、お葬式同様、仰々しいものではなく、ごくごく身近な人が集まり納骨を見守るということだ。 一番の身内である、叔母は前日に福島から来た。 今回はお葬式の時に来なかった、私のいとこも前日に九州からきてくれた。 明日が納骨という5月30日は実家にみんなが集まり、一緒に夕食を食べた。 母はにぎやかに父を送ってあげたいと何回も言っていたので、叔母やいとこも前日から来てくれたのはとってもありがたかった。 当日、当然のことなんだけど、omiのオットも赴任地からきた。 オットの話がはいると神聖な気持ちが崩れてしまう!!! オットには言ってあった。 納骨の後にホテルで会食にすると!!!! で、ちゃんと背広を着てきて! と指示を流しておいたんだわ。 で、オットはその指示を守った。 だけど、背広はきてきたんだけど、何も着替えを持ってこなかった!!! 前日からず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と背広を着っぱなしでいるつもりだったんだろうか!!!!!!! しかもだ。 ぱっと見たそのワイシャツはomiに言わせると非常にやすっぽく、とても中年(もう老年か?)が着るようなものには見えた。 (これって精一杯、よく言っている!!) 一ヶ月間の神聖な気持ちがどどどっと崩れるようだった! オットが帰ってきて、突然忙しくなるomi. なんで着替えを持ってこない!!!!! オットが着替えるものを調達して着せる!! なんでこういうことが自分で考えられないんだ!!! どうしてもがまんできないワイシャツはがまんできないomiが悪いことになった。 で、ワイシャツまで買いにいく。 もうすぐみんなが集まるって時間にこれだけ動かなければならないomi!!! オットの心配事はひとつだけ。 韓国ドラマの新しいビデオはあるか? しかもこういう時にかぎって、土曜日で終了する大望のビデオが全部そろうんだわ! みんなが集まるということは、母は食事の用意をする。 妹の一家は朝からお墓の掃除をしてくれ、買い物をしてくれ、忙しく動き回る。 その中で何もしないオット。 しかも何もしないんだったらいいんだけど、忙しくはさせてくれることがどうしても納得いかない。 掃除がきらいなomiもこの日は実家の掃除を手伝い、食事の用意を手伝った。 父の遺骨は家にいる間、きれいな布につつまれ、いつも花を飾ってあり、父の好物だった和菓子が毎日、供えられていた。 父が亡くなってから、母は焼香用の香炉を銀座で買い求め、有田焼の湯のみ茶碗をお供え用として用意した。 父の写真は私が生前に瀋陽で写したものだ。 それは紫色のモダンな額にいれられ、飾られていた。 こういうところは母の好みですすめられてきた。 父の場所はいつ誰がみても整っていてきれいだった。 明日は納骨という前日の夕方、みんながそろいはじめる。 最初に叔母がきてくれた。 叔母をバス停に迎えに行く。 叔母は父の妹だ。 福島から直接来てくれたのではなく、せっかく東京に来るのだからと、銀座でうなぎを食べてきたらしい。 今回、初めて知ったのだが、父の父方は熊本の出身なんだけど、父の母方は、江戸時代にさかのぼると浅草に住んでいたらしい。 ルーツっておもしろい!! 次にいとこがきた。 遠いところから順番に来るんだ。 いとこは母の亡くなった兄の息子になる。 omiよりもいくつか年上だ。 いとこは残された母を心配してくれた。 そして、omi家の家族、妹の家族が集まった。 わいわいと食事がすすめられる。 いとこは九州から焼酎をもってきてくれた。 それをあけようとするのだが、明日は納骨ということで、誰もがいつものようには飲まなかった。 夜、8時をすぎるとまず、omi家の長男が帰った。 千葉に住んでいる長男は土曜日は泊まらないで、また日曜日に出直すという。 最近は実家に帰ってもあまり楽しいことはないらしい。 次男は納骨の日は前から決まっていたテストの日だ。 その次男とomiのオットも家に帰る。 妹の家族はいとこを高輪のホテルに送っていく。 夜、遅く、叔母と母と私とになった。 叔母も母も疲れているし、明日を無事に終わらせたいという気持ちだ。 その日は片付けが終わるとすぐに寝た。 早朝、一度家に帰る。 次男は試験のために朝、はやく家をでる。 オットをきちんとさせて(本当になぜ息子達よりもオットが大変なのかと思う。。)一緒におばあちゃんちに行く。 納骨の時間までにはまだ間があったが、時間ぎりぎりになることをさけて、なるべくなんでも早めに動くことにする。 前日に用意しておいたお花や父の写真。 いろいろ用意するとかなり持っていくものが多い。 なによりも主役の父を連れていかなければならない。 福島からいとこが来るので待っていたが、全員がタクシーには乗れないので、先に叔母と母、そしてオットがお寺に行くことになる。 父はオットが連れていくことになった。 なんとなく不安が募るomi. しかし時間の制限もあるし、それで決行となる! 母は父の晩年は、いつも父と一緒だった。 最後に一緒にタクシーにのる。 母は最期まで父の世話をしたし、途中、自分が疲れで入院することもあった。 しかし、なんといっても父を無事に見送ることができてほっとしている。 父が生きているときには感じなかったが、ずっと一緒だったというのはすごいことなんだなあと思った。 omiもいとこが来るとすぐにまたタクシーにのってお寺へ。 この日はこの後、お酒を飲むので、誰も運転しない。 タクシーがすぐに来たらいいけど。。と思っていたが、ちゃんときてくれた。 なにか父がすべて指図しているようだ。 この日は母の妹の叔母夫婦と叔父夫婦もきてくれた。 時間までお寺のお座敷で待たせてもらう。 このお寺の中庭をはじめてみた。 父の納骨の日は自分でももっと気持ちがぐっとくるかと思っていたのだが、お寺にきてからも気持ちを明るくもてた。 父が亡くなってからこの間、悲しかったのだが、父が天国に行ったという安堵感もあった。 そういう気持ちが大きかったし、49日という時間が落ち着きを取り戻したのかもしれない。 納骨がはじまる。 母は今場所の相撲の番付表を父の遺骨と一緒にいれたいともってきていた。 それを骨壷におさめる。 お坊さんがお経を読む。 そして、ひとりひとりが、お花とお線香を供えた。 父はお墓の中にはいった。 父が亡くなるまではそれがとっても悲しいことだったのだが、実際にその場になるとここがこれからの父の場所なんだと思えるようになった。 なにかここで安らかに休めるのだなあと安心することができた。 短い納骨の儀式だったが、お葬式同様、みんなの気持ちがあって、とってもよかったと思う。 母は納骨の後、みんなで会食をしたいとずっと言っていた。 今回、いとこが手配してくれた、高輪のホテルでその会食をすることができた。 ホテルからのマイクロバスがお寺まで来てくれた。 この日は前日までは雨という予報だったが、見事に雨は降らず、晴れ間さえみえた。 みんながなんとなくそうなるのではないかと思っていたところもすごかった。 時々使う、高輪のホテルの中華レストランで、母方のいとこは待っていてくれた。 実は九州からきたいとこもここに泊まったのだ。 いとこのおかげで、いろいろなサービスもしてもらって、叔母とは父の話などもまたできてよかった。 時間ぎりぎりまでここで話をしながら食事をする。 母はこの会をどうしてもしたかったし、これが終わってほっとしたに違いない。 時間になり、ここで解散とする。 九州のいとこはここから羽田に行き、叔母といとこは品川駅より福島に帰り、omiは母とタクシーで家に帰る。 タクシーに乗ると雨がぽつぽつと降り出した。 このタイミングも信じられないと思った。 父の納骨の時はお日様も見えたほどなのに、それが終わると天気予報の通りになったのだ。 そしてタクシーが家に着いた時はぽつぽつがちょっとひどくなりつつあり、マンションのエレベーターに乗っているときにその雨が突然ひどくなったらしい。 上についたときは土砂降りになっていた。 こんなことってあるんだ! って気持ちだった。 ずっと父が見ていたに違いないと思わざるをえなかった。 父はお墓に行ったけど、今でも母の部屋には父のコーナーがあり、写真がかざられ、いつも花も飾られ、お菓子がおかれている。 父は母をずっと見ているのだろうなあと思っている。 そう思うと不思議と気持ちがやすらぐ。 人間って生前も大切だけど、どのように最後を迎え、それをまわりが納得していくか、ということもとっても大切なことなのだと、この年になってやっとわかった。 追記 父がなくなって2ヶ月が過ぎた。 時々、父のお墓に行くが行ってはすぐ帰ったり、早朝に行ったり、父も娘にあきれていることだと思う。 昨日、偶然に父が亡くなった日に生まれた赤ちゃんに会うことができた。 二ヶ月という時間が漠然をしたものだったが、この間に生まれた赤ちゃんがこんなに成長するのだと改めて時間の流れを感じた。 2009年6月21日 |